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昔、学生時代に社会福祉協議会にボランティア登録していました。

そのため、食事介助や一時保育、ガイドヘルプなどで派遣されていました。

なぜ当時、ボランティアをしていたというと特に理由はないのですが、
時間が有り余っていたからだと思います。バイトしたいと親に言えば、
「働くのだったら社会人になってから嫌でもできるんだから…」と
反対され、旅行が好きだけどお金もそれほどなく、ボランティアに
落ち着いたというのが当時の成り行きだったように思います。

4年間くらいボランティアを続けたでしょうか。

とある養護学校(現、特別支援学校)によく派遣され、
今でもある光景が思い出されます。

「あらコウちゃん(仮名)、お利口さんに待っててくれたの」

とお母さんが障害のあるお子さんを迎えに来る間、私はそのコウちゃんを
抱っこして眼鏡を吹っ飛ばされたり、のけぞるものだからおっこどしそう
になったりしていました。

「お腹空いた顔しているわね、一緒にママと帰っておやつ食べましょう」

連れて帰るお母さんの背中を私は複雑な気持ちで見送りました。

詳しくは言えませんが、コウちゃんはずっと奇声をあげ、心ここにあらずの子どもです。

私のことを覚えていないばかりではなく、私と母親との違いが判るのだろうか
と思うくらい自分の世界だけに生きているように感じました。

もちろん子と母親の絆の深さなどは他人にははかり知れません。

どのような顔がお腹が空いていて、どのようなしぐさがお利口さんなのかは
数回の一時保育をしている私にはわからないのは当然です。

しかし、なんだろう。この虚しさは。

子どもは抱っこされると抱っこした側に合わせて無意識にも重心を合わせてくれるといいます。

それは自分が落ちないようにするための自己防衛でもあるのですが、
信頼関係を築こうとする関係性の発露でもあるのです。

コウちゃんはのけぞったり、飛び跳ねようとしたりして、重心が合うことはありません。

焦点の合っていないその瞳とたまに眼が合うとゾッとします。

気持ち悪くてゾッとするのではないのです。

あまりに純粋過ぎて、畏れを抱くような気持になり、
自分の心を見透かされているような怖さを感じるのです。

これら一連の光景から私はボランティアとは何かが見えてきました。

『やはり自己満足の世界でしかない』ということ。

コウちゃんも、またお母さんも自己満足の世界。

そして少しでも役に立てばと思っていながら、重心を合わしてくれる
ことさえ無意識にも期待している私自身の自己満足。

ギブ(与えること)&テイク(受け取ること)を損得勘定的な
当たり前の世界でみているところもありました。

自分が与えれば、相手から(重心を合わせるようなことでも)
受け取れると思っていたのですが、眼鏡を吹っ飛ばされるくらい
なことを受け取ります。

ボランティアをやって気づいたのですが、誰が救われるか、
助けられているかって、「自分」しかいないんですよね。

ボランティアって自分のためにやるものなのだと思います。

そして、外の世界と自分とのつながりをどのように観るか
によってその与え方や受け取り方が変わっていきます。

この世界も自分の世界なのだ、自分の意識が創っている
世界なのだと思った時に、本当の自己満足が理解でき
ボランティアの意味も理解できるのだと思います。

偽善的ではなく、損得勘定的なギブ&テイクではなく、
自分のため、自分の世界が愛しいからする行為に…。

歪んだナルシシズムやニヒリズムからくる自己満足ではない
「自分自身を意識する」「自分と世界の関係性に気付く」
「本当の自分、内なる存在と結びついているか否か」
などの『自分との向き合い方』で自分とその世界の満足度が
決まってくるのだと思うのです。

「誰でも自己中心的で自己満足なんだ、それでいいんだ」

そう思えたころから自分の人生が始まったような気がしています。

わがままや自分勝手とは違った部分。

自分の意識を尊重でき、自己満足があるから他人に与えること
になっていくことが、ちょっとでも伝わったら嬉しいです。


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