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だいぶ暖かくなってきて、芝生の雪もとけてきたのですが、今朝はマイナス7度くらいで雪がちらついていました。ダウンジャケットを片付けてしまったのは早すぎたと思いました。

先週の土曜日、子ども達の日本語教室のため、マニトバ日本文化協会に行ったら、古本が段ボール数個に入れてあり「ご自由におとりください」となっていまして、本や漫画を数冊もらってきました。誰ももらわなければ処分されちゃうというのですからもったいないですもんね。

昔読んでいた原田宗典の小説や哲学書、そしてなにより私の原点でもある星新一のショートショート短編集が1冊だけあったのが嬉しかったです。(これで池波正太郎の時代小説があったら言うことないのですが)

寝ころびながらどっぷりと読書して、おやつを食べて、読書して、夜食を食べて読書してと、デブまっしぐらな生活をしております(笑)

読了後の感想を妻と話し合うのがまた幸せな時間でして、昨日は『師匠は必要か?』ということについて話し合い、気づいたことを今回このブログに書きたいと思います。

辞書にあるように、ある分野における学問、武芸(スポーツ)、遊びなどの知識や技術を教えてくれる人が師匠だとしたら、先生とどう違うのでしょうか。師匠という言葉の中にはもっと信頼関係が濃くて、憧れや尊敬したい人という意味が含まれているように思うのです。

指導料や自分の顕示欲だけで教えるような指導者や、人として尊敬できない指導者は師匠と言えないような気がします。「心の師匠」という言葉があるように、今の自分の心に必要な教えを持った人が師匠ということになるのかもしれません。

ある哲学や宗教には「出会ったすべての人や物事が師匠である」という考え方もあります。

ドラマや小説を読んでいると、師弟関係とは事故のように出会ってしまったタイミングで生まれますし、お互いの相性というあいまいな感情で成り立ってしまうこともありえるのです。

現代においては、グーグル検索やユーチューブ動画が技術や知識を教えてくれるわけですから教わるだけなら師匠という存在が必要とされなくなってきたといえます。

このように考えると、師匠という定義はいろいろとなりますが、
「この人のように(このような状態に)なりたいと思える対象」が師匠なのだと私は思いたいようです。

でも、「師匠って本当に必要なのだろうか?」とさらに迷い始めて、読了後に妻と話すことになったのでした。

この迷いは海外移住したことに少なからず関係があるような気がしています。

カナダでは人種の多様性や社会的なステイタスの違いの幅が広すぎて、いわば何でもありで、他人と比べることの無意味さを実感し、「普通」とか「一般」、「平均」など『世間体』を気にする必要のなさは気軽である一方、自分の社会的立脚点がどこにあるかを迷わせます。

自分を律するもの(ルールや他との比較、わかりやすい目標)がないとだらしなくなっていくような罪悪感があるくせに、そんな基準や暗黙の掟、世間体が嫌いだったから日本を飛び出してきたのにと思ってしまうがために、自分の立ち位置に自信がなくなっていくのです。(会社という看板や役職を背負っていませんしね)

今回読書したことで、私はもう師匠を求めることをやめようと思い立ちました。

例えば最近まで私は海外移住生活の師匠を求めてきたり、カナダでのビジネスの師匠を求めたりしてきたわけですが出会わず、求めること自体がいかに意味がないかに気づいたのです。

師匠との出会いを求めるということは、まず、相手に期待や依存しすぎてしまうがあまり、失望したり道を誤ったりする危険性があります。

また、師匠を求めるということは、弟子になりたいということであり、何か自分に問題があっても師匠のせいにできてしまうかもしれません。師匠ができたがために、いつまで経っても受け身で、自分の生活の責任から逃げたくなってしまう現象が起こりやすいとしたらこれもまた危険です。

以前、海外移住に関するほかの人のブログを読んでいたら「日本から来たばかりの移住者の方は最初は僕に頼ってきてにこやかだったのに、だんだん居心地が悪くなってくると私たち先住者のせいにしたり、この国のせいにして出て行ってしまった」と書いてありました。海外移住希望者や新参者さんたちが自分自身『弟子や消費者(お客さん)』であることを抜けられなかったからではないかと推測できます。(私も似たようなことを受けたことがありましたから)

さきほど『社会的立脚点』というわかりづらい言葉を使ってみました。

これは社会・海外移住先に対して、どのような立ち位置になっているか、つまり他と比較することなく、身の丈を知り、どのような立ち位置になりたいかを自分で決めることです。でも、自分の社会的立脚点は「○○という職業になれ」など他人や世間体から決められて、自分自身も「○○という職業にならなければ」という思い込み、教育、家庭の歴史があったからその枠組みから抜けられず悩んでしまうのです。

悩むからこそ、その道の師匠を求めてしまうのではあるまいか……?

なぜなら、師匠は自分のことを認めてくれるはずだから(←という思い込み)。

そう、『認められるはず』『認めてもらわないと先に進めない』という受け身さ、甘えこそが師匠を欲する心だと気づいた瞬間に「私は今、何をどう認めてもらいたいのだろう?」、たとえ認めてくれそうな人がいたとして「私の海外移住生活に今、何をしてくれることを期待しているのだろう?」と問題の本質に気づいたのです。

海外移住生活は相性やタイミングありきで、正解なんかなく、家族構成やスペックによって大きく違ってくるし、比較するものでもない。『認められること』を期待できるのは永住権取得くらいでしょうか。でも、永住権取得は通過点にしかすぎず、すでに海外移住してこれからもするわけですからやはり社会的立脚点という言葉を意識しないといけないと感じてしまうのです。

繰り返しになりますが、その立脚点とは世間体や暗黙のルールを強いるような日本社会的なものではないです。比較しても意味がない、認められることを求めても意味がないということを腑に落としたうえで、自分の立ち位置がどうありたいかです。

だからこそ師匠は必要なく、もう自分がすでに自分の人生の師匠なんだという自覚 と、今まで皆さんに助けられた感謝、そして、自分たち家族でやってこられたじゃないかと自分自身を認めることが大切であると気づいたのでした。

最後に、
海外移住を希望されている方や、ウィニペグへ来たばかりの方へ。

私のように師匠と出会えることを期待しすぎたり、他と比べてしまったり、誰かに認められないと次に進めないようにならないよう気をつけてくださいね。(でも、実務的なサポートが必要でしたら遠慮なくおっしゃってください)

それでは、また。

※備忘録(前回の投稿から今回までの支出)
【合計145.04ドル】

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