ワクチン接種の話題ってデリケートでタブーになりつつある(けど、だからこそ…)
2021年11月28日(日)の日の出は8時02分。日の入りは16時31分です。最高気温はマイナス2度。最低気温はマイナス9度との予報でした。
昨年の今頃はコロナに感染したことが判明して、「ああ、人生がここで終わってしまうのか」と死を意識しましたが、おかげさまで軽症で後遺症もなく今に至っています。
去年感染したことを最近、知人に話してみたら、「え、どの株?その時期だとガンマ株かな?」と反応されて、いかにコロナ禍が長く続いているかを実感しました。最近ではオミクロン株の感染拡大が危惧されていますしね。
ワクチンが開発されたら収束するものだと勝手に思い込んでいただけに、いまだにマニトバ州で156人(11月26日集計分)も新規感染者がいて、子どもへのワクチンも推奨されるようになって、まだまだ予断を許さない現状だなんて……。
「もういいでしょ?いい加減終わりにならないかな」と、さらに心が腐食していくように感じます。
小学校に通う子ども達は12月2日の夕方に任意でワクチンを接種することができるようで、我が家も子ども達にワクチンを接種させようと思っています。(私たち夫婦はフルワクチン済)
このワクチンを接種する、しないという話も国によって、地域によって、そして人によってデリケートな話題となって、効果や副作用もさることながら、必要性の議論や陰謀説まで出てきてSNSを見ていると心が疲弊していきそうですよね。
マニトバ州では、ワクチン証明となるカードやQRコードを提示しないと、レストランで食事ができないとか、施設によっては利用できないという規制があり、最近では運転免許を取得するための免許センターでワクチン証明が必要になったというニュースを目にしました。
私が卒業したレッドリバーカレッジでも以下の写真のようにワクチンが義務化となっているようです。
さらには、教会の看板においても、
「私たちはみんなワクチン済みです。あなたもワクチン済みだといいな~」と圧力をかけてきているような文言を見つけるので「ワクチンを接種したくない人は居心地が悪いだろうな~」と心中を察してしまいます。(神様や宗教の寛容さについて考えさせられます)
「カナダが国をあげてワクチンを義務化するかのように圧力をかけてくるので、もうカナダから出ようと思っています」と永住権をあきらめた人がいたことを友人を通じて聞きました。
また、
「彼女が反ワクチン派でワクチン接種者に対して攻撃的なため、僕は彼女と別れることにしたよ」とか、
「身体にわけのわからない物質を摂取したくないと言いながら、ジャンクフードを食ながら話す人がいる」
「ワクチンを接種しないから解雇された」
などの話も見聞きしたことがあります。
なんだかもう宗教の話をするようなタブーなイメージをワクチンに持ってしまいそうです。
そう、ワクチンの話ってタブーになりつつある(けどだからこそ)って話をしたいと思います。
タブーとは「言ったり行ったりしては罰が起こるような禁忌」とウィキペディアなどで定義されているかと思いますが、私の頭の中の辞書が定義する【タブー】とは昔から「触れると面倒くさくなること」となって頭の中で変換されます。
「あの人の前で○○な話はタブーだからね」(→「言ったら面倒なことになるよ」ってな感じです)
初対面の人と政治や宗教の話をしてはならないといわれていますよね。これらの話に触れると話が面倒になるばかりではなく、結末が面倒なことになりうる可能性が高くなるからなのでしょう。
しかし、インターネットが発達し、SNSで自分のつぶやきを気軽に発信できるようになると、タブーがもてはやされるようになってきました。
以前のように「面倒くさくなるから触れない」ではなく、「これって面倒じゃない?」とつぶやくことで話がはずみ、「いいね」や同意のコメントをして来た人と仲良くなり、やがてその集団の中ではタブーがタブーでなくなっていきます。
自分たちが欲しい情報だけを集め、都合のよい『事実』しか信じず、自分たちの正義を振りかざしていく人も少なくはありません。
被害者と加害者、傍観者と当事者などの違いが溝を深くしていき、分断や二極分化を生んでいます。
それでは、どうしたらよいのでしょうか?
分断や二極化をただ嘆くよりも、自分がタブーにしていることにどのように向き合っていくか、何をタブーにして、何が許せないのかなどを内観することによって、すぐに自分が居心地の良い方向に進めるように心づもりしておいたほうが良いのではないかと思うのです。(←これは自分に言い聞かせていますが…)
冒頭でも書きましたが、昨年のこの時期にコロナに罹った瞬間から、この事実をどのように発信していこうか(いや、面倒くさくなるから触れないでいようか)と岐路に立たされたように感じました。
今までコロナやワクチンのことをタブー=面倒くさいくらいに考えていたのに、急に当事者になり、自分なりの解釈や覚悟を求められるようになったわけです。
あるニュースで、ソーシャルディスタンスや外出禁止などで孤独耐性が弱い人ほどメンタルをやられてしまったと報道していましたが、同時に面倒くさいことへの耐性の弱さや対処の仕方が苦手な人ほど生きにくい社会になっていくのではないかと考えるようになったのです。
私の場合は自己開示をすることで上手くいくケース、特にブログで赤裸々に書くことで助けていただくことが多かったため、面倒くさい話題でもブログに書けば自己セラピーのごとくスッキリとして自分の中のタブーも薄まっていくのです。(あなたの場合はどうでしょうか?)
いつもこのブログを読んでくださっているあなたのおかげで生き延びているように感じます。
心から感謝します。ありがとうございます。
日曜日の夕方から書き始めて、いつの間にか日付が変わってしまっていました。
気づけば11月ももう終わろうとしているのですよね。
12月も引き続きあなたにとって素敵な月になりますように。
それでは、また。